趙匡胤(ちょうきょういん)は中国・北宋の初代皇帝で廟号は太祖です。
元々は後周という国の重臣として活躍していましたが、
将兵から擁立されて皇帝になった人物です。
目次
柴栄(後周の世宗)の片腕として活躍
趙匡胤が活躍した時代は、五代十国時代といわれる
乱世の時代です。
その五代十国時代で一番傑出した人物が柴栄です。
趙匡胤はこの柴栄に仕え、数々の武功をあげていきます。
主君の死により皇帝に
道半ばで柴栄が病により39歳の若さで亡くなってしまいます。
跡を継いだ恭帝は7歳の子供でした。
未だ乱世が続くなかで7歳の子供を主君としていただくことに
不安を感じていた将兵はより頼りになる主君を欲しました。
そこで浮上したのが柴栄の片腕である趙匡胤でした。
ここで即位に至る過程で発生したエピソードがあります。
将兵は深夜に集まり酔って寝ていた趙匡胤をおこして、
皇帝しか着用してはいけない黄袍を被せられ酔いが冷めておらず、
わけがわからない状態のまま、いつの間にか皇帝に擁立されていた。
実際は黄袍を準備していたり、将兵が統一した動きをしていたり、
実際は趙匡胤の実弟である趙匡義や腹心の趙普が根回ししたと思われます。
柴栄の後を継いだ恭帝のその後ですが、
趙匡胤に帝位を禅譲後も無事に生を全うし、
一族も無事に保護されたようです。
統一事業と武断政治から文治政治への移行
皇帝に即位後、柴栄の統一事業を継いで
北漢を除く各国を併呑していき、
天下統一寸前まで導きます。
趙匡胤の凄いところは降伏させた各国の君主一族や重臣を
粛清せずに手厚く保護したところです。
そして統一事業が進んでいき軍事力が不要になっていく過程で
武人の権限を縮小し、科挙出身等の文官官僚を重用する
文治政治に移行させていきます。
秘密の遺訓
趙匡胤が子孫の歴代皇帝のために残した石に彫った遺訓があります。
歴代皇帝は重臣にも見せずに一人で遺訓を確認したようです。
- 後周の柴氏一族を子々孫々まで保護すること
- 言論を理由に官僚や知識人などの士大夫を殺してはならない
この遺訓により宋が存続している間は柴氏が絶える事はなく、
言論により死罪になった者もいなかったようです。
疑惑の後継
趙匡胤は50歳で亡くなります。
彼には成人した息子がいたのですが
後を継いだのは実弟である趙匡義でした。
趙匡胤が臨終の間際、弟に後事を託したとあります。
しかし、これを疑い趙匡義が兄である趙匡胤を弑逆して
即位したのではないかと推測する人もいるようです。
おわりに
趙匡胤は武人でしたが先にもあげたように
以前の主君一族を庇護したり、降伏した者を粛清しなかったり、
王朝の初代皇帝としては血生臭さをほとんど感じない人物で
人柄が偲ばれます。