歴史

ニキウス・ユニウス・ブルートゥス | ローマ共和制の父

ニキウス・ユニウス・ブルートゥスはローマが王政を布いていた時代に

王政を打倒し共和制を打ち立て、初代の執政官になりました。

元々はブルートゥスの母はローマ最後の王タルクィニウスの姉妹で

王とは叔父、甥の関係でした。

姓のブルートゥスは元からの姓ではなくあだ名で

「愚か者」(ブルータス)と呼ばれ、それが姓になったようです。

 

王政から共和制に

 

きっかけは王の息子セクストゥスが親族のコラティヌスノの妻である

ルクレティアにたいし、乱暴を働いたことからでした。

ルクレティアは父親と夫に信頼できるものと一緒に来るように連絡し、

そのうちの1人がブルートゥスでした。

ルクレティアは乱暴された事実を伝えたあと、

短剣で胸を刺し自害しました。

ブルートゥスはルクレティアの遺骸を広場に運び、

王族の暴虐を伝えました。

聞いていた人々は口々に避難の声をあげ、

王族は追放することになりました。

そして専制政治が復活しないように、任期1年で指導者(執政官)は

2人体制で市民集会が選出することに決まりました。

 

追放された王タルクィニウスの反撃

 

エトルリア地方に亡命したタルクィニウスは

エトルリアの諸都市に呼びかけ軍勢を集めました。

時を同じくして、ローマ内部では王政復古の陰謀が

行われましたが密告により発覚し、陰謀に加担した者達は

逮捕されました。

その中にブルートゥスの2人の息子も含まれており、

父であるブルートゥスは息子の処刑に立ち会うことになりました。

その後、エトルリア諸都市の軍勢を率いてタルクィニウスが

攻めてきました。

迎え撃つブルートゥスは王の息子アルンスと一騎討ちの末、

相打ちとなり戦死しました。

戦争の結果はタルクィニウスの軍勢が優勢だったようですが、

撤退することになり、ローマの勝利となったようです。

ローマ市民の悲しみの中、ブルートゥスの葬儀が行われ

ローマの女性達は1年間の喪に服したそうです。

 

おわりに

 

ブルートゥスはどんな気持ちで息子達の処刑に立ち会ったのでしょうか。

そして直後の戦争で彼自身も戦死することになりました。

悲しいことですが彼も王族の一員であり、本来であれば追放される側だったはずで、

そんな彼がもし長生きしていればどうなっていたのかを自分は考えてしまうのですが

皆さんはどう思ったでしょうか。

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