楽毅は中国の春秋戦国時代の燕の名将です。
三国志で有名な諸葛孔明が若い頃に自分になぞらえた人物です。
目次
燕の国に仕えるまで
楽毅の先祖である楽羊は魏の文侯に仕えた将軍で中山の国を攻めて攻略し、
その地の霊寿に封じられ子孫も代々この地に定住したようです。
その後、中山は国を再興しましたが、趙の武霊王により再度滅亡しました。
楽毅は兵法に通じていたため、趙の国で推挙する者がいて趙に仕えることになりましたが
趙の国内で内乱が起こり武霊王が亡くなったため、
楽毅は趙を離れて魏の国に仕えるようになりました。
隗より始めよ
魏に仕えた楽毅ですがその後、燕の国に仕えることになりますが
楽毅が仕える前の燕の状況について先ずは説明します。
燕では王を上回る権力を握った宰相の子之(しし)がいましたが、
国が乱れ、その事に危機感を抱いた王の世継ぎである太子は
斉が支援を約束したため子之を攻めました。
こうして燕で内乱が勃発しましたが、その混乱の中で
太子の支援を約束したはずの斉が燕に攻めこみ燕王は戦死し
子之は逃亡しました。
その後、斉の遠征軍は退去し2年後に太子が王に即位しました。
それが燕の昭王です。
昭王は斉の仇に報いを与えたいと願いそのために
優秀な人材を集めようとします。
そこで郭隗(かくかい)という者に相談しました。
「斉は我が国の混乱につけ込んで燕を襲い破った。
燕は小国で仇に報いる力がないことは自覚しているが、
優れた人材を得て、国事を共にして先王の恥を雪ぐことが
わしの望みである。
優れた人材をさがしてほしい。
見つけてくれれば、その人物の教えに従おうと思う」
郭隗は答えました。
「王さまが人材を招きたいと思っているのであれば、
先ずは郭隗からお始めください。
私ですら優遇されるのであれば、郭隗よる優れた賢士が
千里の道であっても遠しとせずにやって参りましょう」
話を聞き昭王は郭隗のために宮殿を建て彼に師事しました。
すると燕には優れた人材が集まり出しました。
その中の一人が楽毅になります。
楽毅は魏の使者として燕に赴いたようですが昭王が楽毅を見込み
楽毅も昭王が人を重んじる人と思ったのでしょう
亜卿(上卿に次ぐ大臣)として燕に仕える事になりました。
斉の仇に報いる
燕は優秀な人材を得ることにより、栄えるようになりました。
斉に対する復仇の機会を伺っていた昭王は楽毅に対し、
斉討伐の方策を問いました。
楽毅は斉は強大なため燕単独では厳しいことを伝え、
他国と結び連合して攻めることを提案しました。
そこで昭王は楽毅を趙に使者として送り盟約を結ばせました。
楚や魏にも別の使者を送り、趙を通じて秦の国にも
斉を討つことの利を説かせました。
そして斉の湣王の横暴を憎んでいた諸国は燕と同盟を結び
斉を討伐することになりました。
楽毅が帰国し復命すると昭王は楽毅を上将軍に任命し、
趙の恵文王は相国(宰相の位)の印を授け、
楽毅は趙・楚・韓・魏・燕の五国を併せた連合軍の総司令官として
斉討伐軍を率いることになりました。
そして済水の西において斉軍と激突し見事打ち破りました。
燕以外の四国の兵は引き上げましたが楽毅は引き続き燕の軍を率いて
斉の都である臨淄まで追撃しました。
湣王は莒へと逃亡し、楽毅は臨淄を占領することに成功しました。
斉の国で得た宝物や祭器をことごとく燕に運び、昭王に献上しました。
昭王はよろこんで済水のほとりまで出かけ、将兵を労い恩賞を与え
楽毅を昌国君に封じられました。
昭王から引き続き斉の攻略を命じられ、5年の間に70余城を降伏させ
燕の直轄地としました。
そして燕に降らない城は残り2城(莒、即墨)のみになりました。
楽毅の返書
楽毅を重用していた昭王が急死し、子の恵王が即位しました。
恵王は即位前から楽毅を快く思っていなかったようです。
それを利用したのが斉の将軍である田単です。
田単は恵王が即位すると燕に工作員を送りこみ
「楽毅が残り2城を攻略しないのは恵王と仲が悪いため
兵をとどめて斉王となる準備を進めているようだ。
斉側は恐れているのは楽毅に変わる将軍が来ることだ」
と恵王に伝えさせた。
恵王は元々楽毅を疑っていたため、田単の反間に乗せられて
楽毅に召喚命令を出し、騎劫(ききょう)を代わりの大将とした。
楽毅は殺される危険を感じ、趙に亡命しました。
趙は亡命してきた楽毅を観津の地に封じ、望諸君と号して優遇し、
燕と斉を牽制しました。
一方、田単は楽毅に代わり燕軍を率いることになった騎劫を計略により、
打ち破り騎劫は戦死し、斉は旧領を尽く取り戻しました。
恵王は楽毅と騎劫を交代させたことにより敗北し
斉の地を失ったことを後悔したものの趙に亡命した楽毅を憎悪し、
趙が楽毅を用いて燕に対して征伐が行われることを恐れました。
そこで恵王は楽毅への詫び言と楽毅の行動への非難を伝えさせました。
楽毅は先王である昭王の旧恩とその恩に対し仇で報いることがないことを伝えました。
楽毅の返書を受け取り恵王は安心し、楽毅の子である楽間を
あらためて昌国君の位を継がせました。
楽毅も燕と交流を行い趙との間を取り持ち趙で生涯を終えました。
おわりに
楽毅は宮城谷昌光の小説の主人公にもなっており
すごく面白いのでおすすめです。