歴史

堀秀政 | 名人の異名を取った政治・軍事の才人

生没年:1553年〜1590

堀秀政(ほりひでまさ)は織田信長、豊臣秀吉の天下人2人から信頼を得て

重用されましたが38歳の若さで惜しくも亡くなりました。

通称が久太郎であったことから「名人久太郎」とも呼ばれていたようです。

 

信長の側近

 

堀秀政は堀秀重の子として美濃にて生まれ、

13歳の時に信長の小姓として出仕するようになりました。

その後、信長の馬廻として側近くで活躍しました。

取次、使者、軍監、各種の奉行などだけでなく

戦場にでも活躍しました。

特に伊賀攻めでは四手に分かれての攻略戦で

一方の主将として近江の武将を率いて参戦しています。

武将としても信長に高い評価を得ていたようです。

 

本能寺の変

 

信長が本能寺にて自刃した時、秀政はどうしていたか。

もし信長に近侍していたら亡くなっていたと思われますが

秀政はそのとき使者として豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の元に

送られていました。

信長が亡くなって以降はそのまま秀吉の元を離れず、

秀吉の覇業に貢献していくことになります。

 

秀吉の家臣

 

秀吉の元での最初の合戦は信長の弔い合戦である

明智光秀を相手取った山崎合戦でした。

山崎合戦では中川清秀、高山右近と共に先陣として活躍し、

さっそく武功をあげました。

光秀滅亡後、清洲会議後に秀政は佐和山城を与えられ、

織田家の新当主である三法師の傅役を担い織田家直轄領の代官も務めました。

その後も小牧の戦い、雑賀攻め、四国攻め、九州攻めでも活躍し

秀吉の天下統一事業で重要な役割を果たします。

四国平定後の国割りで越前十八万八千石の大名に出世します。

しかし北条氏との戦いの折、小田原城攻めの陣中にて

病により38歳の若さで亡くなってしまいます。

一説には秀吉は北条氏討伐後、関東八カ国を任せるのは

徳川家康ではなく秀政であったとも言われています。

秀政が生きていれば関東八カ国すべてを任されることはなくても

家康の領地がそこまで拡大せず、その後の歴史も変わっていたかもしれません。

 

秀政の人となり

 

あるとき秀政の治める地の城下町に立て札が立てられました。

そこには秀政の政治上の問題点を並べられていました。

家臣がそれを秀政に見せ、立て札を立てた者を捕縛し処罰を行おうとしました。

しかし秀政は内容を確認した後に札を立派な袋に入れ箱に納め家宝にしました。

その後すぐに問題点を改善する施策を秀政は行なっていきました。

秀政は誰の言でも軽んじることなく、正しい意見であれば卒直に

自分の誤りを質す人だったようです。

 

おわりに

 

堀秀政は好きな武将なのですが単独で扱われている書籍が見つからず、

地味な印象があり残念です。

やはり亡くなるのが早すぎたのでしょうね。

今後、秀政を主人公にした小説が出てくれればすごくうれしいです。

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