王莽(おうもう)は中国・前漢時代に外戚として権力の座に就き
一時的にせよ前漢を崩壊させ簒奪王朝を築きました。
目次
不遇な前半生
王一族は前漢時代に外戚(王莽の叔母が皇后)として権力を握るようになりました。
王莽の叔父達も高い地位に就き、彼の従兄弟たちも恵まれた生活を
送っていましたが、王莽の場合は父が早くに亡くなっていたため、
外戚として高い地位に就くことができずに不遇でした。
善行による上昇
他の一族ほど恵まれていない王莽でしたが、
母や嫂(兄がなくなっているため未亡人)に対してよく仕え、
家の外でも名士と付き合い世間の評判は良かったようです。
そして叔父が病気になった時には自ら看病を行い、
そのことにより、叔父は臨終間際に王莽を
帝に推挙したそうです。
そこから王莽は順調に出世していき
大司馬(軍事を取り仕切る役職)になりました。
新たな外戚
しかし当時の皇帝である、成帝が亡くなったことで
新帝(哀帝)による外戚が生まれ大司馬を辞任することになりました。
しかし哀帝は後継者も残さずに若くして亡くなってしまいました。
即日、王莽の叔母(元皇后でこの時は太皇太后)が政権を掌握し、
王莽は大司馬に復職しました。
皇帝への道
新たな帝である平帝は幼かったため安漢公と称され、
帝を補佐する立場になりました。
哀帝のときと同じ様に平帝の母方の外戚(衛氏)が権力を握らないように
都から追放します。
それに反対し、衛氏一派に同調した王莽の長男である王宇はその事により、
毒殺してしまします。
反対派を弾圧する一方で世評を高める工作も着々と行い、
勢力を拡張し、平帝が長じて意のままにならなくなると毒殺し、
摂皇帝と号して、皇帝の代行者として振る舞うようになりました。
その後、本当の皇帝になるために世論を操作、ついに皇帝に即位し
前漢王朝を滅ぼし新王朝を建国します。
周公の政治を理想として追い求めた治世と崩壊
王莽が理想とした人物が周王朝の基礎を築いた周公でした。
そんな彼が行なった時代にそぐわない復古主義的な政治は
国内を混乱させました。
失策続きの連続で、信望を失い漢王朝の復活が待望され、
各地に反乱がおこり、王莽はついに殺されます。
こうして新王朝は短い治世で滅びます。
おわりに
王莽は若い頃の不遇から、のし上がるために世評を武器に
高い地位につきましたが、実際に権力を握り政治を行う
力量はなかったようですね。
民衆にとっては良い政治が行われれば偽善も善だったと思います。
権力を握るために、世評を高める行為をするのは
悪いことではありませんが、政治家として有能でないと
民衆にとってはそれが悪になる典型のような一生だと思いました。