生没年:1404年〜1473年
山名宗全(やまなそうぜん)は応仁の乱で西軍の総大将としてのイメージが強い武将ですが、
それ以外の事績については知らない方もおられるのではないでしょうか。
そこで今回は山名宗全の生涯を追っていきます。
目次
六分一衆と呼ばれた一族
山名氏は清和源氏の出で、新田氏の祖である新田義重の長子である義範が
山名氏を称したことから始まります。
室町幕府で重きをなしていった山名一族は一時は11カ国の守護になり
「六分一衆」と呼ばれるようになります。
しかし、守護の弱体化を図る三代将軍足利義満による明徳の乱などにより
急速に勢力が衰えていきました。
相続争い
宗全は山名時熙の三男として生を受けました。
十歳の時に元服し、四代将軍足利義持に諱を一字賜り
持豊(紛らわしいため以後宗全で統一します)と名乗りました。
長男が夭折し、次男の持熙が六代将軍足利義教の不興を買い
廃嫡になったことにより宗全が嗣ぐことになりました。
家督を嗣いだ年に比叡山衆徒の強訴事件が起きましたが
義教の命により比叡山攻撃を行い、衆徒の蜂起を抑える武功を上げました。
父である時熙が亡くなると次兄の持熙が宗全の家督相続に不満を持ち挙兵しますが、
無事に鎮圧します。
赤松追討と山名氏の躍進
赤松満祐が自邸に将軍義教を招き弑逆する嘉吉の変が発生します。
宗全自身は無事でしたが、一族の熈貴も犠牲になりました。
宗全は赤松氏追討で功を上げ赤松氏の旧領を獲得すると
「六分一衆」と呼ばれた頃に劣らない勢威を取り戻しました。
その後、家督を嫡子の教豊に譲り宗全と号すようになります。
応仁の乱の前哨戦
応仁の乱は東軍と西軍で争われた戦争ですが西軍総大将を務めたのが宗全です。
一方の東軍総大将を務めた細川勝元は宗全の婿で幕政の主導権を握るため協力しあっていましたが
宗全が討伐した赤松氏の再興を行うなど応仁の乱直前では険悪な関係になっていました。
将軍の元で幕政を統括する管領は細川家、畠山家、斯波家の三管領家が就任しますが
畠山家、斯波家で内紛(畠山政長vs畠山義就、斯波義敏vs斯波義廉)が発生していました。
宗全は婿である畠山義就、斯波義廉を支援し、細川方の畠山政長を惣領の座から引きずり落とし、
畠山義就を新惣領にし、管領職を辞した政長の後任として義廉を据えました。
失脚した政長は領地に戻らず、軍勢を集めて京を窺うように陣を取りました。
畠山氏の内紛による京周辺での合戦に危機感を持った八代将軍足利義政は
山名、細川両名に軍事介入を禁じました。
勝元は義政の命令に従いましたが、宗全は従わず義就に加勢しました。
御霊合戦と呼ばれるこの合戦で宗全の加勢を受けた義就は政長を破り
政長は勝元に匿われることになりました。
応仁の乱
御霊合戦で政長に加勢しなかった勝元ですが、反撃するため各地から兵を集めだしました。
それに気付き宗全も各地から兵を集めだし宗全方、勝元方が各地で小競り合いが起こり
将軍義政が調停を行いましたが、抑えられず泥沼の戦いになる応仁の乱がはじまりました。
当初は宗全方が劣勢でしたが、宗全の婿である大内政弘の参戦で劣勢を覆しはじめました。
しかし決定打にはならず応仁の乱が続く中、宗全は70歳で亡くなりました。
おわりに
山名宗全は赤ら顔で興奮しやすいことから赤入道とも呼ばれていたようです。
しかし戦には強く一休宗純には毘沙門天の化身と呼ばれたようですが
応仁の乱については勝利に導くことができなかったようですね。